【歴史散策】二代目関白 豊臣秀次の居城、八幡山城へ迫る Part2

こんちゃっす!

今回も八幡山城はちまんやまじょう跡へ行った時の写真を載せていこうと思います♪

前回は八幡山城跡にある八幡山展望館へ行き、少しだけ写真を紹介しました。今回はその続きになります。

ではこの辺りに展示してある資料を一部紹介させていただきます。

豊臣秀次とよとみひでつぐがつくった城下町は城が廃城になった後も栄え続けたのは、秀次の街づくりが輝かしいものだったからでしょう。

近江国おうみのくに(滋賀県)ゆかりの戦国武将が紹介されていました。

明智えっくん
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全部写真に収めたので是非見てください!

京都にほど近い近江の国。戦国時代や安土桃山時代に幾度となく繰り返される戦いの舞台になった近江国は、ゆかりの戦国武将が数多くいます。

明智えっくん
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では八幡山展望館を出て城跡を周ります!

八幡山展望館の裏口から出て歩いていきます。 (画像出典)八幡山ロープウェー公式サイト

歩いてみると、見渡す限り多くの石垣が残っていました。

筆者が訪れた季節的に綺麗なアジサイが咲いていました。

石垣は萌えますね。

木が生い茂っているので周りがあまり見えません。

そして西の丸に到着。地図でみるとシンプルに見えるのですが、実際に歩いてみると結構迷ったりして、こんな変なルートになってしまいました(;^ω^)

さらには出丸跡へは今回いけませんでした。(見逃したというのが正しいかもです)

景色がめちゃくちゃキレイです!

琵琶湖も見えます。田舎の景色っていいですよね…。

礎石そせきらしきものもありました。

明智えっくん
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この西の丸には猫が住み着いているようです。人に慣れていて可愛かったですぞ!

では北の丸跡へ向かいます。

右手に本丸の石垣が見えます。かなり迫力があります。400年以上もこの形を保っている事が本当にすごい。

左手には大杉秀雲龍神の祠があります。

この度、ご縁深い八幡山御守護の大杉龍神が痕跡のみで痛みが甚だしくなっていられましたので御神体の「大杉秀雲龍神」の御像を彫っていただきまして、日蓮宗大荒行堂での百カ日の祈願成満観請の後、新たに「祠」を建立お祀り致しました。今までお詣り下さっていた方々にお知らせ致しますと共に知人方にもご案内してお詣り下さいませ。

と書かれています。

そして北の丸へ到着。なぜか恋人の聖地のオブジェクト。記念撮影にはもってこいですね。

ここからは安土城があった安土山がよく見えます。

北の丸から本丸跡に築かれた村雲瑞龍寺むらぐもずいりゅうじへ向かいます!

村雲御所瑞龍寺とは 超簡単に

豊臣秀吉とよとみひでよしの姉であり豊臣秀次とよとみひでつぐの母である瑞龍院妙慧日秀尼ずいりゅういんみょうえにっしゅうに(とも)が秀次事件で自害した秀次の菩提ぼだいの為に京都に創建。1916年(昭和36年)にこの地に移りました。

本堂。

瑞龍寺から見た滋賀の町並み。

本堂の中にお邪魔させていただきました。

なで石。ものすごいご利益がありそうです。

では外に戻って。

カメ吉くんという亀がいました。

少し奥に進むと金生稲荷大明神があります。鳥居に石が多数乗っていました。なぜでしょう。

金金で綺麗でした。

では最後におねがい地蔵堂へ向かいます!

以上で八幡山城の写真は終わりになります。

再び八幡山ロープウェーで下山。当時は城下町が広がっていたのでしょう。

豊臣秀吉の後を継ぎ、有望視されていた豊臣秀次。

秀次に謀反の気持ちがあったのかは定かではありませんが、秀吉の命によって自害に追い込まれてしまいました。

無能とも殺生関白せっしょうかんぱくとも言われる豊臣秀次。本当に無能だったのか、殺生関白だったのかは今の私たちに知る術はありません。しかし秀次がこの地の城下町の創設に尽くし、繁栄させたという事実はあります。

この記事で少しでも豊臣秀次に興味を持った方は、いろいろ調べてみて自分なりの評価を付けてみてはいかがでしょうか?

八幡山城 wikipediaから引用

別名     八幡城、近江八幡城

城郭構成   放射状式連郭と居館

天守構造   不明 (天守台あり:現存せず)

築城主    豊臣秀吉、豊臣秀次

築城年    1585年(天正13年)

主な改修者  京極高次

主な城主   羽柴秀次、京極高次

廃城年    1595年(文禄4年)

遺構     曲輪・石垣・空堀・犬走り、居館

指定文化財  なし

再建造物   なし

明智えっくん
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っという感じで今回は以上です!次回の更新もお楽しみに!

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