こんちゃっす!
前回に引き続き、長篠・設楽原の戦いの地を巡ったときの写真を数多くアップしていきます(^^♪
※本来なら超ボリュームの記事でしたが、100枚以上の写真を載せたところ、スマホじゃ重すぎて見ることができなかったため、ボリュームを約半分にいたしました。近いうちに残り半分の記事を載せますので少々お待ちください!
前回は武田軍の軍師、山本勘助の子である山本信供のお墓へ行ったところから始まります!
山本信供のお墓から南西に進んで行き、細い道に入っていきます。
お?なにやら見えてきました。
設楽原古戦場いろはかるたを発見!
設楽原古戦場いろはかるた【き】
広瀬の渡
奇襲隊 広瀬を渡りて 鳶ヶ巣へ
徳川四天王の筆頭 酒井忠次が奇襲隊を率いて、この辺りにあった広瀬の渡からよ吉川村を経て鳶ヶ巣山砦に奇襲を行いました。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
👆の道を左へ行くと、古戦場いろはかるたの場所へ行けます。
古戦場いろはかるたが設置してある場所のさらに奥へ向かいます。
小さな舟がありました。川路史跡研究会 旧渡舟場。
写真じゃ分かりづらいですが、すぐ横を豊川が流れています。
さらに奥に進むと
岡崎城にいる徳川家康に救援を求めに行った鳥居強右衛門が上陸した場所があります。
廣瀬渡鳥居勝商上陸地と刻まれています。
勝商とは諱なんじゃよ。諱とは名前の事でワシでいう家康のことじゃ
石碑の裏側はちょっとした崖になっており、ちょっと怖かったです。
では次の場所へ!
ほ~んと気持ちいいほど自然にあふれています。自転車を漕いでいるだけでも楽しい。
ふと、自転車を漕いでいると
道の隅っこに突如出現!w
設楽原古戦場いろはかるた【に】
天正乙亥設楽原古戦場
日本の 戦史かえたる 設楽原
織田信長は1000挺~3000挺ともいわれる大量の火縄銃を使って日本の戦史を劇的に変化させました。
教科書にも載るような歴史の転換点だったこの戦いに勝利した信長はいっきに天下人へと近づきました。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
この看板は、注意していないと見逃してしまいそうな場所にありました。
👆こんな感じにポツンとあります。
では次の場所へ!
自転車を漕いでいると不意に発見しました。
「川路城」跡 お鷹井戸の看板が!
どうやら前回の記事で登場した設楽貞通のお城だったようです。
予想外の史跡を見つけて嬉しかったと同時に、かなり予習したはずなのですがまだまだ勉強不足を痛感させられました。
では次の場所へ!
ほんとうに一面が緑です。
だんだん緑が深くなってきました。
景色が緑で埋め尽くされましたw
その埋め尽くされた緑の中にひっそりと白い看板が見えます。(写真中央に注目)
こんな奥地にも設楽原古戦場いろはかるたがあります。
設楽原古戦場いろはかるた【せ】
先陣の 大久保兄弟 うって出る
ここは石碑が老朽化していたため、文字がどうしても読めませんでした(´;ω;`)
大久保兄弟とは徳川の家臣である兄の大久保忠世と弟の大久保忠佐の事で、設楽原の戦いでは徳川軍の右翼に配されていました。武田方の山県昌景隊と接触すると大久保兄弟は馬防柵の前に出て攻め、敵が攻めてくるものなら馬防柵の後ろへ下がり、鉄砲で攻撃するなど臨機応変な戦術を取り織田信長に褒め称えられました。
大久保兄弟はよくやってくれた。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
来た道を戻ります。
👆この道をまっすぐ進めば設楽原古戦場いろはかるたがあります!
では次の場所へ!
見えてきました!
設楽原古戦場いろはかるた【る】
留守の役 高坂弾正は 海津城
設楽原古戦場いろはかるた【ゆ】
故ありて 昌澄の墓は小川路に
高坂弾正とは武田四天王の中で唯一、長篠・設楽原の戦いには出陣しておらず北方の上杉謙信に備え、海津城を守っていた高坂昌信のことです。武田四天王の他の3人は設楽原の戦いで戦死したため武田四天王唯一の生き残りとなってしまいます。
昌澄というのは高坂昌信の子であり、父の代理で長篠・設楽原の戦いに出陣しましたが酒井忠次隊に討ち取られました。ここから東に3キロほどの場所にある有村という場所で討ち取られましたが、故あってこの小川路にあるそうです。
設楽原古戦場いろはかるたの横には高坂昌澄の墓があります。
左の石碑には高坂源五郎昌澄之碑と刻まれ右の墓石には高坂弾正一子 高坂源五郎●●←(崩れていて読めない)と書かれています。おそらく「之墓」と刻まれているのではないでしょうか。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
では次の場所へ!
見えてきました。
畑のすぐ横に設楽原古戦場いろはかるたがあります。
設楽原古戦場いろはかるた【ほ】
火縄銃弾丸採集地
堀りあてし 弾丸は 鉄玉鉛玉
昭和37年(1962年)夏、この辺りの畑で2つの弾丸は発見されました。現在までに設楽原で発見された鉄砲玉の数は約40個と言われています。数千挺もの火縄銃が使われたはずなのに、これほど発見された数が少ないのは、この地に田畑が多く地中深くに埋もれてしまった説や、当時は大変貴重であった鉛を使って作られていた鉄砲玉を戦後に回収した説などがあります。
見つかった鉄砲玉を調べるとタイの原料が使われた鉄砲玉もあったんですよ!
筆者も思わず鉄砲玉を探してみたくなりました…。
鉄砲玉を見つけた場合、〇〇玉をいうように自分の名前を付けられるんですよ~!
私の場合だと明智玉になりますね!
明智玉は、そなたの娘の名前じゃろ!
たまにはボケてみましたw
玉だけに…!!
おいキンカン頭をだまらせろ!
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
👆この道を進むとすぐに設楽原古戦場いろはかるたの句に到着します!
またまたのどかな道を進んで行きます。
見えてきました。
次に訪れたのは鎌倉時代に設楽氏が建てた居館跡にある増瑞寺へやってまいりました。
長篠・設楽原の戦いの後に奥平昌信が再建したと言われています。
周辺にはお堀が残っているようですが、筆者は当時その事を知らなかったので写真がありません(´;ω;`)
では次の場所へ!
周りの景色が似すぎていてマップアプリで確認しながらでないと迷子になりそうです。
見えてきました。奥に神社があるのが見えますでしょうか?
ここは平井神社という場所で、織田信長が本陣としていた場所になっています。
織田信長はこの場所に幟旗や旗指物を林立させて、信長ここにあり!とアピールしたみたいです。
では階段を登っていきます。
本堂。
本堂横の道を下っていくとすぐに
看板があります。
織田信長本陣地の説明が書かれています。
小高い山になっているので戦場がよく見えたのでしょう。
平井神社横の道を進むと…
設楽原古戦場いろはかるたの句が見えてきました。ここも見つかりにくいので注意が必要です。
織田信長本陣極楽寺跡
設楽原古戦場いろはかるた【ゑ】
絵図ひらき 軍議かさねし 極楽寺
設楽原古戦場いろはかるた【て】
手振りよく おどる酒井の えびす舞
この場所は長篠・設楽原の戦いが起きる以前に極楽寺という寺があった小高い丘でした。(合戦当時はもう廃寺になっていました)本陣となったこの場所で軍議を開き、数多くの命令を下したと言われています。
設楽原の合戦前夜、酒井忠次の物見が織田信長に「武田勢軍は小勢」と報告。それを聞いた織田信長は大いに喜び、酒井忠次にえびす舞(海老すくい音頭)を躍らせたという話が残っています。
設楽原古戦場いろはかるたの句の横に石碑もありますが、草で見えませんでした。おそらく織田信長本陣地跡と刻まれているみたいです。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
では次の場所へ!
織田信長本陣跡から東へ向かっていきます。
もうすぐです。
猪肉料理を提供している、和食ししやを通り越し
見えてきました。ここはサマリヤの丘という老人ホームです。この敷地内に織田信長の次男である織田信雄の本陣跡があります。
敷地の奥にあるので、敷地内に入るのは不可能だったので写真撮影は断念しました。
一応、外からも【北畠信雄本陣地】と書かれた看板が見えるようですが筆者が訪れたときは、草が生い茂っており看板を確認する事が全くできませんでした。
北畠とは、信雄を使った北畠家乗っ取り作戦で北畠家の家督を継いだから北畠を名乗っている時期があったのだ。
👆完全に敷地内にあります。横の小さな用水路沿いの道から、草が生えていなければ確認することができます。
では次の場所へ!
次の場所は織田信雄本陣跡から更に東へ行くとたどり着きます。
ある神社に着きました。ここは野辺神社と言う場所で織田信長の長男、織田信忠が陣を置いた場所の跡地になります。
織田信雄の本陣があったサマリヤの丘からかなり近いです。
戦勝祈願に句を残すとはカッコいいですね。
では階段を登っていきます。
織田信忠本陣地と刻まれた石碑。
村社 野邊神社
本堂。無人の静かな神社でした。
では次の場所へ!
続いては白山社跡にきました。
一説に、鳥居強右衛門が援軍要請で長篠城を脱出する際、鈴木金七郎という者も同行したという説があります。その鈴木家が代々守り神として祀ってきた祠が平成の初め頃まであったそうです。
今では中に入る事ができませんでした。
では次の場所へ!
続いては伊藤クリーニングへ…ではなく伊藤クリーニングの裏にある禅海寺に行きたかったのですが、奥に行けなかったので、設楽原いろはかるたの句の写真だけ撮影しました。
設楽原古戦場いろはかるた【ら】
来援を 見届け金七郎 帰農する
鈴木金七は鳥居強右衛門と共に長篠城を脱出し岡崎城にいる徳川家康に援軍要請をしました。そのあと長篠城へは帰らずに岡崎にとどまり農民に戻ったと伝えられています。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
👆この禅海寺から南下していくと鈴木金七の活躍が書かれた看板もあります。
写真にもあるように実はこの近くに茶臼山という山があり織田信長の陣地跡があるのですが、ここは最後に訪れようと思っていますので、今後の更新をお楽しみに!
もともとは先ほどの極楽寺跡に陣を置いたのだが、後に茶臼山に移動させたのだ
長篠古戦場レンタサイクルを利用して史跡巡りをしているのですが、制限時間が3時間しかなく、このころになると猛ダッシュで移動する筆者であった。
っという感じで今回は以上です!次回の更新もお楽しみに!
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