【歴史散策】豊臣秀吉の誕生の地、豊国神社へ!Part1

今回は愛知県名古屋市中村区にある豊臣秀吉とよとみひでよし誕生の地である豊国神社とよくにじんじゃ(中村公園なかむらこうえん)へ行きました!

豊臣くん
豊臣くん

ワシの故郷かぁ、懐かしいのぉ

豊国神社

【読み】とよくにじんじゃ

【住所】愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷

【受付時間】9:30~16:30

【駐車場】あり(有料)

【公式サイト】

愛知県名古屋市中村区の中村公園前の交差点にある大鳥居

愛知県名古屋市中村区の中村公園前にある巨大な鳥居。1929年に建てられました。

豊臣くん
豊臣くん

都会の中に突如と現れる巨大な鳥居を是非とも生で見てほしいんだがね!

現在この鳥居の色を金色に塗り替える計画が考案されており、中村区の住民にアンケートを取っているようです。

この中村公園前の交差点を北に真っ直ぐ進んでいきます。

大鳥居と中村公園を繋ぐ道には、このように豊臣秀吉ゆかりの戦国武将が紹介されています。

豊臣秀吉。戦国武将好きなら一度は見たことがあるこの肖像画。右下に小さく名古屋市秀吉清正記念館蔵なごやしひでよしきよまさきねんかんぞうと書かれているのがわかりますか?この名古屋市秀吉清正記念館は後程行きます!

前田利家まえだとしいえ。名古屋市中川区荒子出身の武将。豊臣秀吉の親友でもありました。秀吉と共に織田信長おだのぶながの家臣として出生し、五大老ごたいろうとして豊臣秀吉を支えていました。その翌年の1599年に前田利家が死去。その翌年の1600年に関ヶ原の戦いが起こりました。

前田利家がいたら関ヶ原の戦いは起こらなかったかもしれないと言われています。

福島正則ふくしままさのり。愛知県あま市二ツ寺ふたつでら出身の戦国武将。加藤清正かとうきよまさと共に豊臣秀吉の実子のように可愛がられて育ちました。豊臣秀吉の朝鮮出兵で石田三成いしだみつなり小西行長こにしゆきながらと仲違いして関ヶ原の戦いでは彼らと敵対しました。その後広島城に入って、無断で城を改修したとして改易され川中島かわなかじまで生涯を終えました。

筆者としては豊臣秀吉を崇拝していた正則を煙たがった徳川方とくがわがたの策略で改易されたと思っています。

加藤清正。豊臣秀吉と同じく名古屋市中村区出身の戦国武将。秀吉の子飼いとして可愛がられ、戦での武勇も優れていました。

豊臣秀吉が九州平定したあと肥後の地を任せられた佐々成政が一揆を抑える事に失敗したため小西行長と共に肥後の地を治めました。築城の名手で熊本城や名古屋城の築城にも大きく関わっています。

朝鮮出兵で福島正則と同じく石田三成と小西行長と仲違いをして関ヶ原では敵対しました。

蜂須賀正勝はちすかまさかつ。蜂須賀小六ころくという名前の方が有名かもしれません。愛知県あま市蜂須賀はちすか出身です。

豊臣秀吉と共に墨俣一夜城すのまたいちやじょうを築城したり四国攻めでも武功をあげました。筆者は墨俣一夜城の話は信ぴょう性が低く、創作ともいわれています。

豊臣秀長とよとみひでなが。豊臣秀吉の異父弟。この武将はかなりマニアックなため知っている人は少ないと思います。

政治や戦でその高い能力を発揮して秀吉を支えました。部下を見る目もあり藤堂高虎とうどうたかとらの出世に大きく貢献しています。よく暴走気味になる秀吉のブレーキ役としての一面もあり、秀長亡き後の秀吉は千利休せんのりきゅうを切腹させたり二代目関白の豊臣秀次とよとみひでつぐを切腹させたりもしています。朝鮮出兵もそうですね。

秀長が秀吉よりも長生きをしていたら全て止められていたのかはわかりませんが、歴史が大きく変わっていた可能性もあります。

っと、いう事で秀吉ゆかりの武将たちを見ていたらあっという間に豊国神社(中村公園)へ到着です!

中村公園は別名、秀吉清正公園と言われています。公園内には豊国神社や八幡社はちまんしゃなどがあり見所たくさんの公園になっています!公園内は次回紹介しようと思います!

明智えっくん
明智えっくん

っという感じで今回は以上です!次回の更新もお楽しみに!

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