こんちゃっす!
前回投稿した長篠・設楽原の戦いの地を巡る②で写真の数が多すぎて記事が重くなってしまったので、分割した後半の記事になります!
では引き続きご覧ください!

今回も大ボリュームになっております!ではどうぞ!

次の場所が見えてきました!

この小高い丘を登った先に羽柴秀吉の陣地跡があります!

写真では分かりづらいですが結構な坂道なので電動アシスト付き自転車で助かりました。
写真奥の方に白い看板が見えてきました。

到着。

設楽原古戦場いろはかるた【は】
はたぼこと 秀吉陣地の 名を伝う
当時は織田信長の布陣した茶臼山と繋がっていたこの場所に布陣した秀吉。信長からの信頼の高さが伺えます。秀吉はこの陣に旗鉾(旗の先に鉾を付けたもの)を数多く設置したのか、この宗国という場所は「はたぼこ」と呼ばれるようになりました。


場所は田んぼの奥にあります。

途中、なかなかの狭い道を通るので自転車で通る時は注意しましょう。

2つの石碑。左の石碑には木下秀吉陣地、右の石碑には羽柴秀吉陣地と刻まれています。年代的に長篠・設楽原の戦い年代的に羽柴に姓を改めた後だと思われます。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京
👆この道を左に進んでしばらくすると到着します。

では次の場所へ!

茶臼山の信長本陣跡近くにある長篠設楽原PA(下り)を後に進んで行きます!


木々に囲まれた道をひたすら進み…

次の場所へ到着しました。


この場所の近くに明智光秀陣跡とGooglemapに書かれていました。

Googlemapに表示されている明智光秀陣地跡には道がなく民家の裏のようだったので、これ以上近づくことができませんでした。
2023年5月の時点ではGooglemapに記されていたのですが現在ではGooglemapから削除されています。間違った情報だったのでしょうか。
そもそも明智光秀は長篠・設楽原の戦いに参加したのかが曖昧で、参加していない説の方が有力な気がします。

無駄足になってしまいました(;^ω^)
では次の場所へ!

続いては米倉丹後守正継の墓にやってきました。

米倉丹後守正継とは武田家譜代の甘利虎泰や、その子である昌忠(信忠)に仕えていました。設楽原では馬防柵を突破したものの、討死してしまいました。

米倉丹後守正継之墓と刻まれています。


では次の場所へ!

写真中央に設楽原古戦場いろはかるたの句が見えてきました。

設楽原古戦場いろはかるた【す】
雁峰山登り口
強右衛門が のろしをあげし 雁峰山
武田軍に包囲された長篠城を脱出した鳥居強右衛門が脱出の成功を知らせるために、狼煙を上げるために登った雁峰山。その雁峰山の登り口がこの先にあります。長篠城で籠城していた者たちの希望を背負った鳥居強右衛門。この狼煙を見て希望の光が大きくなったのかもしれませんね。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京

では次の場所へ!

続いては織田・徳川連合軍によって建てられた馬防柵の北端(連合軍からみて左端)だった場所にある設楽原古戦場いろはかるたの句に来ました。

浜田という場所だ
ここから南方に2キロメートルもの長さのある馬防柵が三重で設置してありました。
設楽原古戦場いろはかるた【れ】
馬防柵左端
連吾より 浜田につづく 馬防柵
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京

では次の場所へ!

続いては新東名高速道路の近く。ここにポツンと設楽原古戦場いろはかるたの句が設置されています。

車だったら見逃しちゃいそうです(;^_^A

設楽原古戦場いろはかるた【ろ】
名高田前激戦地
老将の言 勝頼は 封じたり
設楽原決戦の前、医王寺山で軍議を開いていた武田勢。武田勝頼の父、武田信玄の時代から数々の合戦を戦い抜いてきた馬場信房・内藤昌豊・山県昌景の3人の老将は織田・徳川連合軍との決戦に否定的でした。しかし勝頼は老将たちの意見を封じ、決戦する事に。
そしていざ決戦が始まると否定的だった老将の3人は最前線で戦いました。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京

では次の場所へ!

続いては、ある塚にやってまいりました。武田勝頼が最後に本陣を置いた連吾川の東にある信玄台地という南北に伸びた丘の一画にあります。

謎の塚…五味与三兵衛貞氏の塚になります。
五味与三兵衛は長篠城の付城として築かれた5つの砦の内の1つ、中山砦で守備をしていたが酒井忠次率いる奇襲隊に襲われて戦死しました。

では中へ。



傳五味與惣兵衛貞氏之墓と刻まれた碑(墓)
※傳とは伝の旧字。ここでは伝わっているという意味になります。

設楽原古戦場いろはかるた【り】
律儀にも 塩瀬が残す 五味の首塚
謎の塚と言われる所以が3つほどあります。
・鳶ヶ巣山の中山砦で戦死したのにナゼこの地に塚があるのか?
・また一説には中山砦から、この本陣に移動して戦死したとも。ではナゼこの地に移動したきたのか?
・大正三年(1914年)に建てられた碑には「傳」と刻まれています。なぜ傳の字を刻んだのか?
などいろいろな謎があります。

信玄台地には他にも史跡が数多く残りますが、順番に載せていきます。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせんす京

っという感じで今回は以上です!次回の更新もお楽しみに!
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