【歴史散策】太閤秀吉功路を行く

今回は愛知県の名古屋駅から、豊臣秀吉の生誕地である中村公園へと繋ぐ道である太閤秀吉功路を歩いてみたのでその時の写真をアップしていこうと思います!

スタートは“ゆりの噴水”で有名な名古屋駅の西口、【太閤口】からスタートします。

豊臣くん
豊臣くん

ワシを表す太閤という称号が、名古屋の各地で使われているのはデラ嬉しいんだがね!

そしてこのような道を通って中村公園へ向かいます。(地図は公式サイトからお借りしました)

まずはこの地である名古屋市中村区で日吉丸(秀吉)が産まれた時の様子です。

日吉丸が喧嘩をしている様子でしょうか?この太閤秀吉路のゴールには日吉丸が子供たちを率いている様な様子の銅像もあります。

弘治4年(1558年)信長がほぼ尾張(現在の愛知県西部)を統一したころに信長に仕官したそうです。桶狭間の戦いの2年前です。モニュメントには有名な話である秀吉が信長の草履を温めた様子が載っています。

そして運命の桶狭間の戦い。神仏を信じない信長ですが、さすがにこの時は熱田神宮で先勝祈願をしたそうです。

(筆者の考察では信長は自分は神仏を信じてはいないが、兵の士気を上げるために熱田神宮で先勝祈願をしたと思っています)

明智えっくん
明智えっくん

熱田神宮は名古屋市熱田区にある神社です。三種の神器である草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として有名です!

永禄4年(1561年)頃、秀吉は12歳年下の“ねね”を結婚をします。ただの一兵卒であった秀吉が後に天下人になった事で結婚したねねの運命も大きく変わったことでしょう。

信長の居城であった清州城の普請奉行(土木工事などを指揮する立場の物)や台所奉行(台所関係を指揮する物)を積極的に引き受けて成果をあげてドンドン出世していきました。

豊臣くん
豊臣くん

信長様~なんでもワシにお任せください!

信長さま
信長さま

お前はもっとねねを大事にしろ!ハゲネズミ!

※信長が秀吉に対し、ねねを大事にしろ!ハゲネズミ!と書いた手紙が現存します。

秀吉が一夜にして築城したと言われる墨俣城。この城を築城する際、土豪の地からを借りたと言います。ここでも秀吉の人たらしの才能が生かされたのでしょうか。

明智えっくん
明智えっくん

墨俣一夜城に行った時の記事もあるのでぜひ!

この七・墨俣城のモニュメントぐらいまでは太閤秀吉路の旗がありますが、この際には残念ながら旗がありません(´;ω;`)

明智えっくん
明智えっくん

では名古屋市道名古屋環状線の信号を渡ります!

斎藤龍興の居城、稲葉山城へ攻め込む際に秀吉が竹の先に付けて合図とした瓢箪。この戦いで功績をあげた秀吉は信長に認められ報酬として金の瓢箪を与えられました。これが後に秀吉の旗印である千成瓢箪(せんなりびょうたん)になります。

軍師・竹中半兵衛との運命の出会い。秀吉は半兵衛を引き入れるために、何度も何度も半兵衛の家に通ったと言われています。

信長が朝倉と浅井の挟撃にあい、死に物狂いで撤退した金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)。ここで秀吉は殿(しんがり・撤退する軍の最後尾で敵を迎え撃つ非常に危険な役目)を願い出て、見事信長を撤退させることに成功しました。

織田家が浅井家と朝倉家を滅ぼした後、秀吉は滋賀県の長浜城主となりました。この長浜の地で石田三成と出会う事になります。

明智えっくん
明智えっくん

秀吉と三成の出合いには三献茶という逸話があります。JR長浜駅前にこの三献茶の像がありますが、後日写真をアップさせていただきます!

姉川の戦いで浅井軍の猛将・磯野員昌を破った秀吉はここでも武功をあげます。

明智えっくん
明智えっくん

十一と十二の順番が逆なような気もするのですが、どうなんでしょう…。

難攻不落の小谷城を攻め込んだ織田軍は見事小谷城を落城させ、城主で浅井家の当主である浅井長政を自刃に追い込みました。秀吉隊は小谷城の急斜面を駆けのぼり、京極丸を陥落させ本丸の浅井長政と小丸の浅井久政を分断させるという大戦果をあげます。

柴田勝家と意見が合わず、戦線離脱という信じられない行動を起こした秀吉。後に柴田勝家は上杉謙信に負けてしまいます。もし秀吉が戦線離脱しなければどうなっていたのだろう…と考えてしまいます。

中国攻めへ向かう秀吉。別所長治や荒木村重の謀反、竹中半兵衛の病死など窮地に陥りますが、さすが秀吉。徐々に中国攻めを有利に進めていきます。

吉川経家の鳥取城のを包囲した秀吉軍。包囲の直前に町中の米を高値で買い占め、農民を鳥取城に追い込むことで城内の兵糧が瞬く間に底をつき、人肉を食らう者や餓死者が続出しました。

そして備中高松城を包囲した秀吉。水攻めで備中高松城を水没させ、ほぼ勝ちが確定したところで信長に救援要請をした秀吉。信長は自ら出陣するわけではなく…。

明智えっくん
明智えっくん

明智光秀が出陣しました。

そして本能寺の変。明智光秀の軍勢に攻め込まれた信長は自刃を決意。天下統一を目前に、その野望は消え失せてしまいました。

信長の死後、秀吉は電光石火の速さで京都に向かいました。味方の兵の士気を上げるために姫路城にある金銀財宝や兵糧を全て兵に与えたと言われています。

中国尾返しで味方の兵をどんどん引き入れ4万にまで膨れ上がった秀吉軍は明智光秀を撃破。主君の仇内をした秀吉は織田家の中で圧倒的な権力や発言力を持つことになります。

信長の亡き後、織田家の後継者と領地配分を話し合った清州会議。筆頭家老の柴田勝家の意見は通らず、信長の嫡男の信忠のさらに嫡男であり、まだ3歳の三法師(後の織田秀信)が織田家の後継者となりました。ここでも秀吉と勝家の不仲の原因のひとつとなりました。

信長の葬儀を取り仕切り、息子たちより先に三法師を抱き先に焼香を行う事でさらに織田家内での自分の権力を見せつけます。三法師は完全に利用されていますね…。ちなみにこの葬儀には筆頭家老の柴田勝家は呼ばれませんでした。(豪雪で動けなかったとも)

柴田勝家と対峙した秀吉。秀吉の元小姓たちの活躍や、前田利家の調略で秀吉が勝利しました。

ここ名古屋の中村区で生まれた加藤清正も賤ヶ岳の戦いで活躍し、その名を轟かせました。

柴田勝家を破り、天下人に大手をかけた秀吉は大阪城を築城。関白の官職に就きます。

四国の覇者である長宗我部元親であったが、秀吉の大軍勢の相手ではありませんでした。

四国を平定した秀吉は次に九州に軍勢を向けることにしました。

九州の島津を打ち破ると、中部地方から西側は全て平定し終えました。

天皇の為に聚楽第を築くと朝廷の後押しを受け、秀吉の天下統一を阻止できる者はいなくなりました。

最後まで秀吉に抵抗をした関東の北条氏政を討つべく全国の大名たちを率い、北条征伐を行いました。

北条家を滅ぼすと秀吉の天下統一は達成されました。

北条氏政の居城、小田原城

北条氏政、北条氏照、氏政夫人の墓。

日本を統一した秀吉は次なる目標を明(中国)へ向け、まずは挑戦を攻めました。ここで加藤清正は大虎を銃で打ち取ったという逸話があります。

人生の最後は盛大な花見であった秀吉。平民から天下人まで出世したという日本、いや世界でも珍しい太閤秀吉の人生に幕を下ろしました。

そして気が付けば大鳥居の麓にいます。

少し歩けばすぐに豊国神社のある中村公園へ着きます(*’ω’*)

豊臣くん
豊臣くん

本当に凄まじい人生であった。

露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢とは秀吉が最後に歌った辞世の句です。

我が身も露の様に消えていく。振り返ってみれば夢を見ているような人生であった。という意味です。

平民から天下人になるなんてまさに夢ですよね。

太閤秀吉路を歩いてさらに秀吉が好きになりました!

オマケ

中村公園に秀吉と清正の歴史が紹介されている看板が新しく設置されたので、行かれる方は是非見ていってください(*’ω’*)

明智えっくん
明智えっくん

っという感じで今回は以上です!

次回の更新もお楽しみに!

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