Part1 Part2に引き続きPart3になります!
前回訪れた常泉寺のすぐ南隣には妙行寺という、ここ愛知県名古屋市中村区で生まれた加藤清正の出生地と伝えられています。
この妙行寺も信長攻路になっています。
加藤清正の像もあります。
ちなみにこの加藤清正像は名古屋城と熊本城にある加藤清正像と、デザインが一緒なんだがね!
微妙に右手が違うのぉ
こちらは兜が微妙に違うようじゃな
みなさんはどの加藤清正像が好きでしょうか?
石碑の文字が見えにくいですが恐らくキヨマサ橋でしょうね。実は愛知県にはもう一ヵ所、清正橋と言われている橋があります。それがこちら!
愛知県名古屋市北区にある味鋺神社の清正橋。
名古屋城築城時に石垣作りで余った石で作られたと言われています。
この橋に腰かけたとも言われています。
この清正橋の下側には矢穴の跡が残っています。これは石を割って加工するときに使われました。
名古屋城の石垣にも矢穴の跡は残っているんだがね!
ぜひ、歴史マニアさんは訪れてください!w
蛇池公園や比良城跡ともほど近いので、蛇池公園・比良城跡のついでにでもどうぞ!
では再び中村公園に戻ります!
中村公園内には八幡社という社があり、加藤清正はここで必勝祈願をしたと言われている。
また、名古屋城築城の際にここにあった大木を伐採したとも伝えられます。
ここで私が気に入っている名古屋城築城に関してのエピソードを紹介します。
名古屋にバカデカい城を作ってくれ
御意。
相分かりました。
清正よぉ、お前1607年に熊本城を築城したばかりじゃないか内府殿(徳川家康の事)もコキ使い過ぎだよな。(名古屋城の築城開始は1610年)
文句があるなら国に帰り謀反(裏切り)の支度をしろ
ちっ!
子供のころから豊臣秀吉に育てられた加藤清正と福島正則は、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼がいる大阪城を包囲する形で築城される名古屋城築城の時のエピソードです。
その他にも徳川家康の命令で名古屋城を築城する事(天下普請・てんかぶしん)で豊臣家の重臣であった2人を徳川家に取り込むという意味もあったと言われています。
加藤清正のどこまでも真っ直ぐな性格も、福島正則の人間味あふれる性格も大好きです。
ではでは話を中村公園の八幡社に戻します。
八幡社の中にも清正橋と書かれた石碑がありました。これに関しては全くわかりません。
知っている方がいたら情報を教えてください。
そしてそして中村公園の豊臣秀吉と加藤清正と言えばコレ!
次回、この秀吉清正記念館に潜入したいと思います!お楽しみに!
コメント