こんちゃっす!
今回も前回に引き続き、小牧・長久手の戦いで合戦の部隊となった長久手の古戦場巡りをしたときの写真を載せていこうと思います!

前回の最期に訪れた色金山を出発するところからスタートです。

最初に訪れたのは岩作城址です。岩作城は小牧・長久手の戦いの際、徳川方の今井氏の居城だたっと言われています。
池田恒興に攻められて落城しました。

城跡は現在長久手市役所になっており、遺構は全く残っていません。都市開発が進む前までは虎口や土塁が残っていたそうです。

では次の場所へ!

次に訪れたのは耳塚になります。
戦国時代、名のある武将を討ち取った場合は首をとり、首実検の後に供養をするが習わしでしたが、身分の低い雑兵を討ち取った場合は耳や鼻を持ち帰って数を証明しました。その耳を供養するための塚になります。

田んぼの中にポツンとあるので見落としやすいので注意。

現在は耳の病が平癒すると言われているそうです。

耳塚と書かれています。

次の場所へ向かいます!

次に訪れたのは富士浅間神社になります。この小高い山は御旗山と言われ、小牧・長久手の戦いの時には徳川家康が陣を置いた場所です。

前回の記事で出てきた色金山を出発し、教圓寺で戦勝祈願をしたあとこの御旗山に陣を移動させたんじゃよ。

山と言っても標高86メートルで、そんなに高くないので簡単に登れます。




次へ向かいます!

次に訪れたのは桧ヶ根公園になります。この公園に史跡が残っています。

桧ヶ根公園の隣には長久手市中央図書館があるので、わかりやすいです。

こちらもポツンと石碑が残っています。

堀久太郎秀政本陣地と書かれています。
三河中入りを行った池田恒興ら別動隊を監視する軍監だった堀秀政が、羽柴秀次を追う徳川軍を迎え撃つために陣を張った地になります。

当時は小高い山になっていた桧ケ根に陣を張った堀秀政は、徳川四天王の榊原康政を打ち破りました。長久手の戦いで唯一の羽柴軍の勝利だそうです。

ちなみに榊原康政は小牧・長久手の戦いの際、秀吉殿を非難する檄文を書いた事で秀吉殿がブチギレて榊原康政の首を取った者に10万石を与えると言っていたんじゃぞ

榊原のアホたぁけが!!!!!っと思っとったんだがね!!

では次の場所へ向かいます!

次に訪れたのは羽柴方の武将、木下利匡が兄の木下祐久と共に戦死した地の石碑、木下勘解由塚になります。

勘解由とは官職名のことです!
長久手合戦の少し前に羽柴秀次が白山林という場所で榊原康政らの襲撃を受け、壊滅状態になりました。その羽柴秀次を退却させるために木下兄弟が討死した場所です。
兄、木下祐久の石碑もこの石碑の東に約50mの場所にあります。
筆者はこの石碑の事を知らずに見逃してしまいましたので、グーグルマップでご紹介します。
この、石が積まれた場所が兄、木下祐久の石碑になります。木下周防守戦死地と称されています。

では次の場所へ向かいます!

次に訪れたのは長久手市のお隣、尾張旭市にある本地ヶ原神社です。
この本地ヶ原神社の前身は白山神社でした。前述した羽柴秀次が榊原康政から急襲を受けた白山林の戦いがこの辺り一帯で行われました。



天正12年(1584年)4月9日。徳川家康の本拠地、岡崎を奇襲するための三河中入り部隊を最後尾から指揮していた羽柴秀吉の甥で若干17歳の羽柴秀次は白山林で朝食をとっていたところ、後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高、側面から榊原康政の急襲を受け部隊が壊滅状態になりました。
羽柴秀次は逃げるための馬もなく、徒歩で命からがら逃げたと言われています。この話を聞いた羽柴秀吉は大激怒したとか…。

では次の場所へ向かいます!
次の訪れたのは、長久手城址になります。織田信雄の家臣、加藤忠景の居城でした。



加藤忠景は岩崎城主の丹羽氏次の姉を正室に迎えており、織田・徳川連合軍のとして奮戦しましたが、長久手城は落城してしまいました。現在、遺構は全く残っていません。



加藤太郎右衛門忠景宅址と刻まれています。

では、最後の場所へ向かいます!

最後に訪れたのは長久手城址からすぐ近くの血の池公園です。

子供が怖がりそうな名前ですね(;^ω^)
この血の池公園のある場所は、小牧・長久手の戦いのとき、徳川軍の渡辺守綱らが血の付いた槍や刀を洗った池がありました。合戦のあった4月9日の頃になると池が赤く染まるという伝説が語られているため血の池と呼ばれました。残念ながら現在は池は埋め立てられてしまっています。

公園には血の池のいわれという事で、血の池と呼ばれるようになった経緯が書かれています。

天正十二年四月九日の長久手合戦では、この一帯が主戦場となり、付近の御馬立山に布陣した家康軍と、秀吉方の池田勝入(恒興)、池田元助、森長可などの武将が対峙し、死闘を繰り返した結果、秀吉方の三将が討死しました
血の池は、家康方の渡辺半蔵(守綱)などの武将が、血槍や刀剣を洗ったことからその呼び名がついたと言われています。毎年合戦の行われた頃になると、池の水が血の色に赤く染まって漂ったと言い伝えられており、名松鎧掛けの松とともに永く人々の心に語り継がれてきました。 昭和六十年三月 長久手町


これが鎧掛けの松です。もちろん戦国時代のものではなく、三代目の松になります。

二代目が昭和五十五年(1980年)に生命を絶った。樹齢80年。という事は初代が(明治33年)1900年頃まであったことになるのでしょうか?松の木の寿命は80年~300年以上も生きると事がある言われています。初代が明治33年(1900年)まで生きていたとしてもあり得ない話ではありませんね。


考えたところで埒があきませんね(;^ω^)

っという事で長久手の古戦場巡りでした。一日中自転車を漕いでいたのでヘトヘトになりました。では今回訪れた場所を地図上で分かりやすくしたのでご覧ください!

赤いラインが前半の記事で訪れた場所、青いラインが後半で訪れた場所になります。なかなかの距離を自転車で移動していますが電動アシスト付き自転車だったのでそれほど苦ではありませんでした(*’▽’)
後に天下人となった羽柴秀吉と徳川家康の唯一の直接対決となった、小牧・長久手の戦い。その中でも主戦場となった長久手の戦いはまさかの羽柴軍の敗北。戦力では大きく劣っていた徳川軍の強さを羽柴秀吉に思い知らせる結果となりました。羽柴秀吉は狙いを織田信雄に定め、信雄に和睦を申し入れました。すると信雄は家康に相談もせず独断で和睦を受け入れ、織田家を救援するという大義名分を失った徳川家康も軍を引き下げなければならない結果になりました。
後に羽柴秀吉は徳川家康討伐の軍備を進めるが天正13年(1586年)11月29日に天正大地震が発生。羽柴軍の徳川軍に対する前線基地の大垣城大垣城など多数の城が全壊した事で徳川討伐は中断され、和睦路線に移っていきました。

家康殿を口説くのはどえりゃ~大変だったがね!

っという事で、真の天下分け目の戦いと言われた小牧・長久手の戦いの長久手古戦場巡りでした!次回の更新もお楽しみに!!
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