【歴史散策】石田三成に過ぎたるもの…佐和山城へ!

こんちゃっす!

今回は石田三成いしだみつなりの居城、佐和山城さわやまじょうへと向かいました!なんと筆者、山城を自分の足で登るのは初めてです!岐阜城には行ったことがありますがロープウェイを使ったので初体験になります😁

(小牧山城こまきやまじょうは歩いて登ったことはありますが、小牧山はかなり道が整備されているのと、山が低いのでノーカウント)

石田三成とは 超簡単に
東京大学史料編纂所所蔵 石田三成像

子供の頃、羽柴秀吉はしばひでよしに見出され小姓として使える。秀吉の下でどんどん出世。浪人だった島左近しまさこん知行ちぎょうの半分を与えるという厚遇で召し仕えたと言われている。

文禄ぶんろく慶長けいちょうの役(朝鮮出兵)の頃から福島正則ふくしままさのり加藤清正かとうきよまさ武断派ぶだんはと言われる大名たちとの衝突が表面化。武断派の大名を従え、豊臣とよとみ家を乗っ取ろうとする徳川家康とくがわいえやす関ヶ原せきがはらで合戦になるも敗北。京都きょうと三条河原さんじょうがわらで斬首し晒された。

徳川殿
徳川殿

歴史好きでない方でも一度は聞いた事があるであろう、天下分け目の関ヶ原はワシ、徳川家康と石田三成の戦いだったんじゃよ

佐和山城とは 超簡単に

佐和山城は建久けんきゅう年間(1190年~1198年)には砦として存在していた。戦国時代には北近江きたおうみを手に入れた浅井あざい氏の家臣である磯野いその氏が入城。織田信長おだのぶながが浅井氏を滅ぼした後、本能寺ほんのうじへん横死おうしすると豊臣秀吉とよとみひでよしの家臣が入城、数年後に石田三成の居城となる。

関ヶ原の戦いで石田三成の西軍が敗北すると、西軍を裏切った小早川秀秋こばやかわひであきの軍勢に攻められ落城(または開城)。後に徳川四天王とくがわしてんのう井伊直政いいなおまさが入城する。佐和山城の天守てんしゅは5層(または3層)の立派な天守だったと伝わるが、天守内は割と質素だったと言われています。

三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城

このような俗謡ぞくようが残っています。意味はそのままで石田三成には島左近と佐和山城はもったいないという意味です。

そんな佐和山城、2022年の12月に行ってまいりました!!!

先に行っておきます。かなり大量に写真撮影を行いました。覚悟しておいてください。

ちなみに筆者は2022年の5月に佐和山城へ行こうと思いましたが、日が落ちかけていたのと、雨がパラついていたので断念しました。そのリベンジを果たしたのです!

まずは佐和山へ上る前に佐和山のすぐ南にある東山公園へ!ここには佐和山城の天守を模した石造があります。「佐和山一夜城」という名前のついたこの石造。なぜ一夜城という名がついているのかは調べてもわかりませんでした。

この石造の裏手にあるのが佐和山になります。佐和山城跡と書かれた看板があります。この写真だと辛うじての文字が見ています(;^ω^)

2023年1月の記事から
2023年1月の記事から
2023年1月の記事から

この東山公園のすぐ近くに石田三成の屋敷跡があります。上の3枚の写真は石田三成の屋敷跡にいった時に撮影した写真です。(使いまわし申し訳ない)

ちなみに近くには島左近の屋敷跡であり井伊直政など、井伊家墓所がある清凉寺もあります。

もう、見所沢山過ぎますw

すぐ近く、歩いて行ける距離に彦根城もあるので1日じゃ全部を周れませんね!

では駐車場に車を停めて佐和山城へ向かいます。

佐和山城への入り口は複数ありますが、駐車場も目の前にある龍潭寺りょうたんじからのルートを選びました。

山に入るとトイレがありません。駐車場にトイレがあるので、寄っていくことをオススメします。

では山の中へ行きます!

龍潭寺拝観入口と書かれた入口と東山背筋コース入口と書かれた入口がありますが、どっちでも一緒です。すぐに合流します。

しかしオススメの入口があります。東山ハイキングコース入口のほうです。なぜかと言うと

石田三成像があるからです。三成公、お邪魔します。

すこし進むと龍潭寺の山門が見えてきます。

山門を先に進みます。

七福神がいました。

どんどん進みます。

龍潭寺はお寺なのでこの先は左右に古いお墓が数多く建てられています。正直ちょっと怖いくらいです。ですが、気にせず進みましょう!

こっちのほうが怖いですね(;^ω^)

Twitterのフォロワーさんの中にも猿を目撃した方がいるようで、かなり警戒して進みました。(結果、猿は出ませんでした)

ちなみに龍潭寺から佐和山城跡までは約1km。30分ほどで行けます。

なかなかの勾配がありますが、道が整備されているので進みやすいです。

当日が雨だったり前日が雨だったりすると、足元が滑るので注意。

なかなか狭い道もあります。

頂上へ600m まだ半分も来ていません。

12月ということで落ち葉の数が凄い(;^ω^)

この辺りも道が狭いので、ちょっと怖かったです。

そして塩硝櫓えんしょうやぐら跡へ。

西の丸(塩櫓)

西にしまる本丸ほんまるの北西に広がる3段の曲輪くるわで、この曲輪はその最北端に位置します。眼下には「かもう坂通り往還おうかん」(通称「龍潭寺越りょうたんじごえ」)を見下ろし、その立地よりからからの城の侵入を防ぐ役割りを担っていたと考えられています。この曲輪の北西と西面には土塁どるいが廻り、水の手に向かって竪土塁たてどるいが築かれていますが、これらは一連で城外への防衛ラインと考えられます。

現在、この曲輪にはたくさんの瓦片かわらぎれが散乱しており、北西端部には大きな土坑どこうがあります。城が機能していた当時、この曲輪には何らかのきの建物が存在したと考えられますが、今後進められる佐和山城の調査で少しずつ詳細が明らかになると思います。

もうひとつ西の丸の説明書きがありました。

西の丸は、本丸の北西に位置し、「かもう坂通り往還」(通称「龍潭寺越りょうたんじごえ」)の切通しから本丸へ至る途中に築かれた丸である。彦根藩主ひこねはんしゅ井伊家いいけに伝来した3枚の佐和山城絵図を見ると、西の丸には3段の曲輪が描かれ、いずれも上段に「塩硝櫓えんしょうやぐら」、下段に「塩櫓しおやぐら」と記されている。ただ、現在は下段を「塩硝櫓」と称しており、名称の混乱が見られる。また、絵図には描かれていないが、北西に伸びる尾根にも2段の曲輪が明瞭に確認できる。西の丸は、3ヵ年にわたる測量調査により、曲輪以外にも土塁や竪堀などの数多くの遺構を確認することができた。

竪堀たてぼり。だいぶ埋まっちゃっていますが、あきらかに人工物です。

もうすぐで本丸です。そろそろ疲れてきました。

そして…到着!本丸です!

佐和山城本丸から北北西の方角の写真。

北北西を見て。フジテック株式会社のエレベーター試験棟が見えます。

佐和山城本丸から西の方角の写真。

西の方角にはどこまでも広がる琵琶湖や滋賀県立彦根総合運動場が見えます。

佐和山城から南南西の方角の写真。

もう少し南(南南西くらい)に目を向けると彦根城が見えます。

もっとズームで。

筆者が訪れた12月初頭は、紅葉の絨毯が広がっており、とても美しかったです。

👆の写真の✕のところにQRコードがあり、読み込んでアンケートに答えると花押入りの御城印がもらえます♪

本丸跡の説明書き。

佐和山の山頂、標高232.9mの位置に本丸が設けられていた。現在も山頂は平坦であるが、かつて本丸に存在したであろう天守台てんしゅだい桝形ますがたなどの遺構をほとんど確認することができない。本丸は、大規模な「破城はじょう」があったと考えられる。かつて、天守台は1丈5尺(訳4.5m)あり、その上に5重の天守がそびえていたと伝える。また、井伊家に伝来した「佐和山城絵図」では、本丸の南東に月見櫓つきみやぐら、北に金蔵かねぐらなどの施設も存在したようである。本丸への出入口施設である桝形は、本丸の南西辺りにわずかな痕跡を認めることができるが、登城道にどのようにつながるのか明瞭でない。

明智えっくん
明智えっくん

関ヶ原の戦いを起こした張本人の石田三成の城として徹底的に破壊されたため、遺構はほとんどありません。石垣もほとんどが彦根城等に転用されてわずかにしか残っていません。

では先に進んで下山しようと思います。

本丸の先に、わずかに残された石垣と千貫井せんがんいがあります。

この先に石垣があるようです。

お、何か見えてきました。

「千貫井」と「石垣」の説明書きです。

本丸跡を大手方面に下がると、登城道が小曲輪(平坦地)と切岸(急斜面)を経ながら本丸に向かうようすを確認すつことができる。その途中では、岩盤上にわずかに残る石垣を確認できる。この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部きていぶであったと考えられる。本丸跡の外周を測量調査したところ、ほぼ同じ高さの7箇所で新たに基底部らしい石垣が見つかった。本丸にも値する貴重な井戸であった。

なんと筆者、石垣を見つけれませんでした…。なんと悲しい。近いうち必ずリベンジします!🔥

千貫井は、説明書きの写真のような祠?がなく、ただ井戸の様な跡があるだけでした。

すぐ横には倒れた千貫井戸の石碑が。

石田時代、城中の飲料水として用いられ喜ばれた有名な井戸です。

お金の千貫?にもかえがたい貴重な井戸と伝うので、かく命名された。

祖先が心苦して作った大切な井戸、みんなで美しく保存しましょう。

気をつけること

1.物をなげ入れないよう。2.深いから落ちないよう。3.いつもきれいに美しくしましょう。

運命の分かれ道。左か右か。筆者は右に行きました。

竹林に入ると電車の音が聞こえてきます。近江近鉄彦根・多賀大社線です。

そして出口が見えてきましたぁぁぁぁぁぁ!

初めての山城を徒歩で登り、しかも途中で誰一人とも遭遇しなかったため、筆者は心身ともに疲弊していました。やっとの事、佐和山城を出た先に見えたものは…!!

なんじゃこりゃあああ!

さ、佐和山遊園?なんか聞いたことあるような…。

佐和山遊園とは 超簡単に

石田三成のテーマパークとして1976年に着工。歴史市資料館や美術館を併設し、ある程度お客を入れていたこともあったようだが、正式なオープンに至る事はなかった。B級スポットとして一部のマニアの方に人気があるとか…。

国道8号線沿いにあります。

一部、立ち入り禁止ですが、入れる場所もありました。

石田三成のテーマパークって、一部の人間にしかウケませんよねw

ではちょっと彦根駅まで歩いていこうと思います。

町のいたるところに佐和山城の案内板がありました。

彦根は彦根城だけじゃない事をアピールしてくれていて嬉しかったです。

彦根市の周辺案内図。どこの町にでもありそうな案内図ですが

案内図の裏側には石田三成の旗印、大一大万大吉だいいちだいまんだいきちが。こんなところにも石田三成を感じれる場所がありました。

彦根駅に着きました。駅前には徳川四天王で初代彦根藩主の井伊直政の像があります。

いやぁ…いいですね(語彙力皆無)

彦根駅から佐和山も見ることができます。

彦根駅に行ったあとは彦根城にも行きました。

そして再び佐和山城の駐車場へ向かいます。

町を歩いていると、ふとある水路も、昔は水堀だったのかな~と妄想したり…。古地図と見比べれば分かるかもしれませんが(;^_^A

最後に最初の方でも書きましたが、島左近の屋敷跡でもある清凉寺へ。

井伊直政公のお墓にお参りして、お昼ご飯を食べに行こうと思います。

もうお腹ペコペコです。

彦根市にあるKOUGEという喫茶店で食事をしました。

超大盛でめちゃくちゃ美味しかったのでオススメです!

ポケモnGOのポケストップにもなっていましたw

お土産も買いました♪ひこにゃん、可愛いですね!

そして石田三成の花押入りの佐和山城の御城印と彦根城の御城印。

佐和山城の御城印の左下にある赤いサインが石田三成の花押になります♪

佐和山城へ行ってみて

筆者は、今までにいろいろな史跡を周ったことがありますが、自分の足で山城を登るのは初めてでした。

佐和山を登るにあたって終始1人きりで誰とも遭遇しなかったので、山中にいるのが私だけだったのでしょう。龍潭寺から佐和山城に入る際、お墓が数多くあったり、猿出没の看板もあったのでかなり不安でしたが、ツイッターのフォロワー様に励ましてもらいながらなんとか無事に下山する事ができました。

今回は佐和山城に残る石垣を見つけることができなかったのが心残りです。今度かならずリベンジしたいと思います。

関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対した西軍の中心人物であった石田三成。徳川家康からしたら大罪人の居城であったため徹底的に破城にあった佐和山城。遺構はあまり残っていませんが、ここに石田三成がいたことは紛れもない事実です。実際に佐和山城へ行って石田三成を感じる事ができたと思います。

これからもまだまだ山城に挑戦してみたいですね!

佐和山城 城郭データ Wikipediaから引用

城郭構造     連郭式山城れんかくしきやまじろ

天守構造     五層(三層説あり。文禄ぶんろく4年(1595年)築・非現存)

築城主      伝・佐保さほ

築城年      鎌倉かまくら時代

主な改修者    石田三成

主な城主     佐保氏、小川おがわ氏、磯野氏、丹羽にわ氏、石田氏、井伊氏

廃城年      慶長11年(1606年)

遺構       石垣、土塁どるい、堀、曲輪

指定文化財    未指定

明智えっくん
明智えっくん

っという感じで今回は以上です!

次回の更新をお楽しみに!

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